卒哭忌

Category : 吐息とも吐かないつぶやき

百箇日の法要は「卒哭忌」ともいうことを今日初めて知りました。

「哭」は声を上げて泣き叫ぶこと。
「卒」は終わるということ。

つまり、故人が亡くなって泣き叫んでいた家族や親近者も泣き叫ぶのを止める頃、
ということらしいです。

今日、あかねの両親と一緒にささやかな百箇日法要をあげるため、先週に続きあかねのお墓に行きました。

正確には百日を経過するのはもう数日先なのですが、全員の都合が良い今日お墓に行くことにしました。

確かに、しばらく前までのように毎日泣いてしまうということはなくなりました。
仕事に復帰して三箇月近くになり、独りぼっちでの生活にもそれなりにリズムが出来てきて、なんとなく日々が落ち着いてきた感じがします。

なるほど、良く出来たもんだな・・・。
と思います。

でも、でも、でも・・・です。

涙は枯れましたが、「虚しさ」は僕の心に重いおもりを下ろしたまま、まだまだしつこく居座っているようです。


これまで僕は「何のために生きている?」ということを考えたことはありませんでした。
それがあかねの死によって「生きることの意味」がはっきりするなんて・・・。

夕食を作って、それが思いのほか上手に作れても食べるのは自分ひとり。
これをあかねに食ってもらえたら作り甲斐もあるのにな、と思い、
朝起きてベランダの朝顔が咲いていたら、「咲いたなー」と二人で並んで眺めることが出来るのに、と思う。

(ただし、今年の夏、うちのベランダには朝顔はありません。去年は僕が思い立ってグリーンカーテンを作ろうと、ベランダで朝顔を育てました。今年はやはりそんな気になれず、殺風景なベランダになっています。)

あかねと喜んだり、残念がったり、感動したりすることが知らず知らず僕の生きる意味になっていたのだと思います。
何をするにしても、最終的にあかねと気持ちをわかち合うことが僕の目的だったのだと思います。
(ほんとはあかねが生きている時に、僕はそれを自覚していないといけなかった、と後悔もしています。)

だから、僕は今これからの人生の目的を見失っています。
だから、何をしても虚しさがいつも同居しています。


あかねを失った今、僕に新しい生きる目的が出来るのか?
いや、それは待つのではなく、自分で見つけにいこうとしなければならないのだろうな、とは思います。
あまり自信がないけど。


次は、初盆です。

あかねが帰って来た時、あかねが心配しないような顔で迎えてあげよう。

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Author:むらさきせいじ
2011年春、妻をなくした40代です。
本当に本当にありふれた人間ですが、人生の半ばともいえる40代で世界中でいちばん大切な人を喪失したことはそれなりに特異なことだと思います。
そんな状況におかれた心情を綴っていくことで少しでも心が解放されたらと思っています。
プロフィールのサムネ画像は、妻が描いた僕の顔です。

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