再入院そして宣告
Category : あかねの闘病について
→前回の闘病記はコチラをご覧ください。
頭部の検査の翌日、外来を受診して今度は頭部への放射線治療を受けるために3月の頭に再入院となりました。
週5回×3週間で計15回の投射が脳腫瘍に対して行われます。
放射線科で治療に伴う副作用が説明されましたが、この説明に僕は同席できず、あかねの父親がヒアリングしています。
夕方僕が病院に到着してから、あかねの父親から副作用についての説明を受けました。
その時のお義父さんの語り口調は、今思い起こしてもなんて言っていいのか、抑揚がなく、伝えることは伝えなければ・・・、というような、何となく僕に説明するのにも“むなしい”ようなニュアンスをはらんでいたと思います。
でも、その時は多少の違和感は感じたものの、僕は内容を理解しておこうという意識が優先して、その時フッと感じた違和感は心に留まり続けることはありませんでした。
数日後、その違和感の原因は明らかとなります。
この入院から、僕は再び会社を早退して毎日病院に通う日々を始めました。
以前の入院の時もそうでしたが、週末の休みは一日病院であかねと過ごします。
この頃から、本当に気持ちが切迫してきた僕は何か自分でも直接あかねの力になれないか?
と思い、書店でがん患者の食事療法を紹介した本を買い込んで、実際に自宅で作りはじめました。
放射線治療が終わり退院したら僕が作って食べさせてやろうと、本とにらめっこしながら台所に立ちました。
当然、療養食ですから塩分は厳しく控えめで、牛肉・豚肉の動物性たんぱく・動物性脂質は完全に排除されたレシピでした。
そんな味気ない食事を続けられるのか?自分自身で試してみて無理がなければあかねにも自信をもって勧められます。
しばらく毎晩自分で夕食を作って食してみて“いける!”という手ごたえを掴むことが出来ました。
あかねの食事は今後俺が作って管理してやる。
というささやかな決意を固め、
「あかね、退院したら、俺が晩ご飯作るから。」
とあかねに話していました。
あかねは、
「仕事して、それで帰ってきてからご飯作るのは無理だよぅ。」
と本気にしていないようでしたが、僕はやる気満々でした。
でも僕のやる気とは裏腹に、あかねは病院で出される食事をほとんど口にすることが出来ず、あかねの両親が日々持ってくる果物(特に口にしやすかったのはハニーデューでした)が主食になってくるようになりました。
それでも、たまに調子のいい時は、病院の売店に売っているサンドイッチが食べたいと言って、買ってきてやると、
「うまーーーいっ」
といって食べることもありました。
その頃の僕はそれだけですごくほっとして、あかねに気づかれないように込み上げてくる感情を押し殺していました。
そんな頃、日中早めに病院に入れた僕に主治医が今後の治療について説明したいと声を掛けてきました。
「もう少ししたら、あかねの父親も来るので二人でうかがいます」
と答えると、そうしたら夕方にお二人にお話します、ことでした。
その日の日付は忘れようがありません。
3月の11日でした。
北の地方で、想像できないほどの悲劇が起こった日です。
でも同じ日、僕自身も生涯で最も過酷な宣告を受けることになりました。
夕方、あかねの父親と二人、説明を受けるはずの部屋で主治医を待っていました。
お義父さんは
「なんか、判決を受けるような気分やなぁ」
とやけに後ろ向きなことを口にします。
「いや、ひょっとしたら前向きな話かもしれませんよ」
と僕は返しました。
・・・きっと前向きな話に違いない。
やがて主治医が部屋に入ってきて、先日放射線科の医師から、お義父さんがどんな説明を受けたのかを確認する問いかけをしました。
「そんなの、医者同士で確認すればいいじゃん」
と思いましたが、その問いかけに続くお義父さんの言葉に、僕は黙り込むしかありませんでした。
「余命、3箇月から5箇月と聞きました。非常にショックを受けました」
お義父さんがその話を放射線科で聞いたのは、今回の放射線治療の副作用の説明が行われた日で、一週間程度前のことになります。
その言葉を聞いて、最初に出てきた言葉は
「お義父さん、よく一人で抱え込んでいられましたね」
お義父さんがたった一人で突きつけられた事実を抱えていたことに驚きました。
お義父さんによると、僕に伝えたらすぐに僕が仕事も何も放り投げてあかねのために無理をするだろう・・・と思ったから伝えることに躊躇していたそうです。
でも、僕はこの日知ってしまいました。
今、この瞬間から僕はあかねのために何ができる?
真っ白になりそうな頭の中でそんな考えを描こうとしていると、
主治医はさらに話を続けました。
「万一、脳浮腫が起こって脳幹を圧迫すると、今日にでも危険な状態になります」
主治医としては、万一僕たち家族が夜間自宅にいる時にそういう事態になった場合、病院の対応として延命措置をして欲しいかどうかの意思確認を僕たちにしておきたかったようです。
そういう事態に陥った場合、延命できてもいわゆる植物人間として生き永らえるだけとも付け加えられました。
僕たちとしては、そこに至ってさらにあかねに苦しみを負わせることはしたくありませんでした。
もちろんそんなことにはなってほしくはないですが、他に選択肢があるでしょうか?
僕たち二人は、いたずらに延命措置を施すことを望まない、と主治医に伝えました。
病院の玄関が閉まってしまった頃、僕とお義父さんは病院を出て駐車場への道を歩きました。
「ほんとに、せいじくんには申し訳ない」
とお義父さん。
その言葉に僕は100%の確信をもってお義父さんに返しました。
「たとえこんなことになっても、俺はあかねと結婚できて良かった」
語尾は震えて声になったかならなかったか憶えていません。
「ありがとう。最後まで頼むな・・・。」
お義父さんに言われて、僕は自分の車に乗り込みました。
いや、でもあきらめてはいけない。
あかねががんばっているのに、僕があきらめるわけにはいかない。
あかねを裏切るようなことはできない。
でも、自宅に着くなり僕は声を上げて泣きました。
その夜、それ以外できることはありませんでした。

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頭部の検査の翌日、外来を受診して今度は頭部への放射線治療を受けるために3月の頭に再入院となりました。
週5回×3週間で計15回の投射が脳腫瘍に対して行われます。
放射線科で治療に伴う副作用が説明されましたが、この説明に僕は同席できず、あかねの父親がヒアリングしています。
夕方僕が病院に到着してから、あかねの父親から副作用についての説明を受けました。
その時のお義父さんの語り口調は、今思い起こしてもなんて言っていいのか、抑揚がなく、伝えることは伝えなければ・・・、というような、何となく僕に説明するのにも“むなしい”ようなニュアンスをはらんでいたと思います。
でも、その時は多少の違和感は感じたものの、僕は内容を理解しておこうという意識が優先して、その時フッと感じた違和感は心に留まり続けることはありませんでした。
数日後、その違和感の原因は明らかとなります。
この入院から、僕は再び会社を早退して毎日病院に通う日々を始めました。
以前の入院の時もそうでしたが、週末の休みは一日病院であかねと過ごします。
この頃から、本当に気持ちが切迫してきた僕は何か自分でも直接あかねの力になれないか?
と思い、書店でがん患者の食事療法を紹介した本を買い込んで、実際に自宅で作りはじめました。
放射線治療が終わり退院したら僕が作って食べさせてやろうと、本とにらめっこしながら台所に立ちました。
当然、療養食ですから塩分は厳しく控えめで、牛肉・豚肉の動物性たんぱく・動物性脂質は完全に排除されたレシピでした。
そんな味気ない食事を続けられるのか?自分自身で試してみて無理がなければあかねにも自信をもって勧められます。
しばらく毎晩自分で夕食を作って食してみて“いける!”という手ごたえを掴むことが出来ました。
あかねの食事は今後俺が作って管理してやる。
というささやかな決意を固め、
「あかね、退院したら、俺が晩ご飯作るから。」
とあかねに話していました。
あかねは、
「仕事して、それで帰ってきてからご飯作るのは無理だよぅ。」
と本気にしていないようでしたが、僕はやる気満々でした。
でも僕のやる気とは裏腹に、あかねは病院で出される食事をほとんど口にすることが出来ず、あかねの両親が日々持ってくる果物(特に口にしやすかったのはハニーデューでした)が主食になってくるようになりました。
それでも、たまに調子のいい時は、病院の売店に売っているサンドイッチが食べたいと言って、買ってきてやると、
「うまーーーいっ」
といって食べることもありました。
その頃の僕はそれだけですごくほっとして、あかねに気づかれないように込み上げてくる感情を押し殺していました。
そんな頃、日中早めに病院に入れた僕に主治医が今後の治療について説明したいと声を掛けてきました。
「もう少ししたら、あかねの父親も来るので二人でうかがいます」
と答えると、そうしたら夕方にお二人にお話します、ことでした。
その日の日付は忘れようがありません。
3月の11日でした。
北の地方で、想像できないほどの悲劇が起こった日です。
でも同じ日、僕自身も生涯で最も過酷な宣告を受けることになりました。
夕方、あかねの父親と二人、説明を受けるはずの部屋で主治医を待っていました。
お義父さんは
「なんか、判決を受けるような気分やなぁ」
とやけに後ろ向きなことを口にします。
「いや、ひょっとしたら前向きな話かもしれませんよ」
と僕は返しました。
・・・きっと前向きな話に違いない。
やがて主治医が部屋に入ってきて、先日放射線科の医師から、お義父さんがどんな説明を受けたのかを確認する問いかけをしました。
「そんなの、医者同士で確認すればいいじゃん」
と思いましたが、その問いかけに続くお義父さんの言葉に、僕は黙り込むしかありませんでした。
「余命、3箇月から5箇月と聞きました。非常にショックを受けました」
お義父さんがその話を放射線科で聞いたのは、今回の放射線治療の副作用の説明が行われた日で、一週間程度前のことになります。
その言葉を聞いて、最初に出てきた言葉は
「お義父さん、よく一人で抱え込んでいられましたね」
お義父さんがたった一人で突きつけられた事実を抱えていたことに驚きました。
お義父さんによると、僕に伝えたらすぐに僕が仕事も何も放り投げてあかねのために無理をするだろう・・・と思ったから伝えることに躊躇していたそうです。
でも、僕はこの日知ってしまいました。
今、この瞬間から僕はあかねのために何ができる?
真っ白になりそうな頭の中でそんな考えを描こうとしていると、
主治医はさらに話を続けました。
「万一、脳浮腫が起こって脳幹を圧迫すると、今日にでも危険な状態になります」
主治医としては、万一僕たち家族が夜間自宅にいる時にそういう事態になった場合、病院の対応として延命措置をして欲しいかどうかの意思確認を僕たちにしておきたかったようです。
そういう事態に陥った場合、延命できてもいわゆる植物人間として生き永らえるだけとも付け加えられました。
僕たちとしては、そこに至ってさらにあかねに苦しみを負わせることはしたくありませんでした。
もちろんそんなことにはなってほしくはないですが、他に選択肢があるでしょうか?
僕たち二人は、いたずらに延命措置を施すことを望まない、と主治医に伝えました。
病院の玄関が閉まってしまった頃、僕とお義父さんは病院を出て駐車場への道を歩きました。
「ほんとに、せいじくんには申し訳ない」
とお義父さん。
その言葉に僕は100%の確信をもってお義父さんに返しました。
「たとえこんなことになっても、俺はあかねと結婚できて良かった」
語尾は震えて声になったかならなかったか憶えていません。
「ありがとう。最後まで頼むな・・・。」
お義父さんに言われて、僕は自分の車に乗り込みました。
いや、でもあきらめてはいけない。
あかねががんばっているのに、僕があきらめるわけにはいかない。
あかねを裏切るようなことはできない。
でも、自宅に着くなり僕は声を上げて泣きました。
その夜、それ以外できることはありませんでした。

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