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このカテゴリの記事を最後に書いたのはずいぶん前になります。

二ヶ月以上のブランクがあります。

その理由は僕にとっては明白です。


次が最後。


と、思っていたからです。

そう思っていたとおり、このカテゴリで記事を書くのはこれが最後です。

あかねはもう半年以上も前に僕の届かないところに逝ってしまいました。
その事実を事実として受け止めることは今でもできません。

今でも、僕たちの暮らした部屋に、街中に、車の助手席に、あかねの面影を探しています。

この最後の闘病記を書ききったら、なんだかあかねとの絆をもう一回切ってしまうことになるような、
そんな気がして、なかなか踏み切ることができませんでした。

でも、
病気と闘うことで改めて思い知った、あかねの強さや優しさ、純粋さをきちんとまとめておこう、というブログ立ち上げの動機のひとつをまっとうしようと思います。




2011年4月19日に日付が変わり、
僕は、携帯電話のアラームを一時間ごとに鳴るようにセットしました。
一時間ごとにあかねの様子を確認するためです。

なぜその日そんな「備え」をしたのかは、解りません。
でも、その日から僕はずっと一時間ごとにあかねの様子を確認するつもりだったのだと思います。
それほど、あかねの様子は僕に“不安”を与えるものでした。

握っても握り返すどころか何の反応も示さない手。
一回がとても長く、そして一瞬止まったかのように思えるようなゆっくりとした呼吸。

あかねの急変に対応できるように。

そんな想いだったのだと思います。



しかし、そのアラームは何度も僕を起こすことはありませんでした。

アラームをセットしてからまもなく、看護師さんが病室を訪れあかねの心拍数が下がっていることを伝えてくれました。

それから、どのくらいあかねは頑張ってくれただろう。
もう正確なところは覚えていません。

その日も僕と一緒に泊り込んでいたお義父さんが、家で眠っているはずのお義母さんに電話をするために病室を出ました。
ややあって病室に集まってきた数人の看護師さんと医師二人、そして僕が病室であかねを見守りました。


「呼びかけてあげてください」


看護師さんのひとりが僕を促しました。

そう言われて、あかねが旅立とうとしている事実を思い知らされました。

僕は「きっと聞こえている」と信じて、あかねの名前を呼び続けました。
本当に何度も何度も。

お義父さんはタクシーで病院に向かっているお義母さんを迎えに病院の玄関に降りたまま帰ってきません。

そのことを気にした看護師さんがお義父さんのもとへ走ってくれました。

看護師さんは一人で病室に帰ってきて、

お義父さんはお義母さんを待つ。
もしも間に合わなかったとしても、せいじ(僕)にだけは必ずあかねを看取ってほしい。

とお義父さんの言葉を僕に伝えてくれました。

僕はあかねに
「おかあさんがもうすぐ来るから、、、おかあさんを待ってあげてくれよ」
と叫びました。


あかねは絶対にそのことを理解して絶対に頑張っていたと思います。
お義母さんにもう一度逢うために頑張っていたに違いありません。
母親想いのあかねが、「もう、いいや」とあきらめたりするはずがありません。

でも、あかねの頑張りは報われることはありませんでした。

お義父さん、お義母さんが病室に駆け込むほんの数分前、
医師があかねの心臓が停止していることを静かに僕に伝えました。
2011年4月19日、午前2時27分でした。

あかねは45年の生涯を終えました。


あかねは、最期の最期まであかねらしく頑張ってくれました。

あかね、ちょっと間にあわなかったけど気に病むなよ。
お義父さんもお義母さんもあかねが最後まで頑張ってくれたことは解ってる。


僕は看護師さんたちに、あかねの身体に繋がれているたくさんの管を全部取り払ってやって欲しい、
と頼みました。

あかね、
もう苦しむ必要はない。
痛みもなくなったろ?
楽になったろ?
わずらわしい管も全部取ってもらうからな。

だから、ゆっくり休もうな。

ぼくには悲しさと同時に、
これであかねは苦しみから解放された、という安堵感が確かにありました。

あかねは、闘病の苦しみからたった今解放された。
あかねは、安らかになれるところへ向かって旅立った。

そう思うことで感情が狂ってしまうことを防いでいたのかもしれません。



あかねの遺体が看護師さんたちの手で清潔にしてもらっている間、僕とあかねの両親は病室の外で待機していました。

その時、僕の携帯が鳴りだしました。
アラームでした。
アラームがなったのはそれが二回目だったと思います。
また、4月19日の朝には丸山ワクチンの三回目の投与が予定されていました。

あかねのために備えたことや予定は、もはやなんの意味の無いものになってしまいました。


そんなむなしさの一方で、僕はあかねの魂に届けたい想いでいっぱいでした。


15年近く、こんな平凡で包容力も無い、それでもって稼ぎも悪い男と一緒に歩いてくれてありがとう。
ほんとうに感謝しています。
俺が天国に逝くことができたら、お返しするから。
待っていてくれよ。


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今回の記事は、「闘病記」としての時系列の時計を若干前に戻します。


あかねを個室に移して間もなくだったと思います。

僕はあかねの病室に泊まりこむようになっていました。

食事は昼は病院内のパン屋さん、夜は近くのスーパーで弁当・惣菜系を買って、食べました。
朝は・・・もう忘れましたが、食べない日もあったと思います。
あかねの両親が、何か食べ物を差し入れてくれることも多々ありました。
自宅は車で20分くらいと近いので、3日程度ごとに自宅に帰りシャワーを浴び、洗濯をして2~3時間後にはまたあかねの病室に戻る・・・というような日々を送るようになりました。

そんなある夜、
その頃あかねはすでに鎮痛剤の影響で、明瞭に言葉を発することが困難で、僕も正確に聞き取ってやることができませんでした。
なので、いつもは聞き役一辺倒な僕ですが、その夜だけは僕があかねに語りかけました。

僕が、これまでのあかねと過ごした時間の中で印象的だったことを、あの時はこうだった、こう思っていた・・・とあかねに話しました。

あかねが初めて僕の部屋に来たときのこと、
僕があかねのことを好きだと自覚したときのこと、

そして、これからもあかねと一緒にいたいということ。

今にして思うと大変な失態ですが、僕は泣きながら話していました。

あかねは感じたと思います。
状況がよくないことを。

自分本位の行動だったかもしれません。
でも、僕はあかねが僕の話を、気持ちを、はっきりと理解してくれるうちに伝えておきたかった。
考えたくはなくても、万一のことを考えざるをえない時期でした。
だから、僕は僕の気持ちを、いつもはとても恥ずかしくて言えないことも伝えておきたかった。

あなたは、僕にとってかけがえのないない人だということを。
そして、これからも僕ら二人の部屋で一緒に暮らしていきたいということを。

うまく話せたか、うまく伝わったかはわかりません。
でも、ひとしきり好き勝手にしゃべった後、もうすでに自力で動くことがほとんどなくなっていたあかねが、ベッドに横たわっているあかねの顔の上でしゃべっていた僕の首に両腕を回してくれました。

あかねはうまくしゃべれない代わりに、僕の首に腕を回してくれることで、意思を示してくれました。


あかね、おまえは本当にどこまでも優しいな。
本当に大好きだ。

僕は彼女のことが人として大好きです。
明るく、朗らかで、他人に優しくて。

僕は彼女が生きている時に彼女と一緒に生きていることの素晴らしさに自覚的になるべきでした。
もっと、僕の素直な気持ちを言葉で彼女に伝えるべきでした。
こんな切羽詰った時でなく。


あかねと二人きりで、まとまった時間を費やして意思を交わせたのはこの夜が最期だったと思います。

あかねの前で泣いてしまったけれど、切羽詰ってしまった時期になってしまったけれど、ここで伝えていなかったら、僕は一生消すことのできない後悔を残していたと思います。

もちろん、あかねを救うことができなかったという悔しい気持ちは、僕を死ぬまで解放してはくれませんが、この夜がなかったら、僕はすぐにあかねの後を追っかけてでも、僕の気持ちを伝えにいこうとしたかもしれません。

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東京まで、丸山ワクチンを取りに行くのはお義父さんに任せることにしました。

お義父さんの主張は、、、

「東京に行くとなったら、丸一日あかねのそばを離れることになる。もし、あかねに万一のことがあった時、必ずそばにせいじくんがいなければいけない。あかねを看取る時、せいじくんは必ずあかねのそばにいてほしい。」

ということでした。

ありがたかったです。

でも、お義父さんもあかねのそばに居たかったに違いありません。

あかねを個室に移してすぐ、僕は泊り込み体制に入りましたが、程なくしてお義父さんも同じように病院に泊り込むようになりました。
もう、70が近い歳で病院の補助ベッドで眠るのはきついと思います。
でも、お義父さんの意思に水を差すことはできませんでした。
僕が彼の立場でも同じことをしたと思うからです。
また、お義母さんも毎日4回の腹膜透析がなかったら、同じようにしていたのではないかと思います。

きっと彼らにとって、あかねは本当にかわいい一人娘だったと思います。
彼ら親子は、僕の目から見ても本当に仲が良く、後から家族として加わった僕に対してもよくしてくれました。

最期の時に必ずあかねのそばにいなければならない人間として、僕を指名してくれ、自らは臨終に立ち会えないリスクを冒して、娘のためのワクチンを手に入れるために東京に向かう朝一番の電車に乗り込んだお義父さんに、僕はどう応えていいのかわからないくらい感謝します。


そして、幸い、あかねはワクチンの到着を待ってくれました。


4月の中旬、お義父さんが丸一日を費やして持ち帰ったワクチンは、4月15日から投与されました。

その日の夜だったと思います。
僕は、あかねと僕の未来を取り戻したいと思い、反応のないあかねの手をとりながら


「今日から、むらさきあかねの逆襲を始めよう」


とあかねに語り掛けました。

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診察前に、一度場所の確認も含めて訪ねていたので、迷うことなくクリニックに着きました。
そして、しばらく待った後名前を呼ばれ、このクリニックの医師と対面しました。

その時に至って僕は初めて自分が髪は伸び放題に伸び、無精ひげもほったらかしのままであることに気付き、まずはそれを医師に詫びました。

「申し訳ありません。今かかっている病院にこのところ泊り込んでいて、こんな不精な格好で来てしまいました」

実は、空きが出たため、その数日前にあかねを個室に移していました。
それまで、産婦人科病棟でもあり、病院に泊り込むことはできなかったのですが、個室に移ることができるやいなや、僕は会社に頭を下げ、しばらく欠勤させてもらう了承をもらい、24時間体制であかねのそばにいることにしたのです。

まったく自分の身だしなみには無頓着になっていました。
でも、事前に今かかっている病院から提供してもらい、先んじて郵送していた資料に目を通していたその医師は、「それも当然だろう」と思ってくれたのか、穏やかに迎え入れてくれました。

そして、僕の手紙を読んでくれたこと、厳しい状態であることは今かかっている病院の見解と相違ないこと、それでも現在治療中の病院の診断書を見て今後の手立てを検討したこと、を前置きして、いくつかのアプローチ方法を提示してくれました。

すべて、いわゆる代替医療・先進医療の類です。

中には僕が何度か目にした治療法もありました。

代替治療については、僕もネットでいくつも調べてみました。
いかにも胡散臭いものから、これなら「賭けてみたい」と思うものも様々ありました。
気になったものについては、あかねの状態を付記して問い合わせのメールを送ったこともあります。
しかし現実的に期待を膨らますことのできる情報を得ることはできませんでした。

だまされてお金をふんだくられるだけならまだしも、かえってあかねの容態にマイナスに作用したら・・・という懸念もあり、代替治療についてなかなか真剣になることはできませんでした。
あまりにお金の匂いがするものがネット上には多く、ある意味偏見を持っていたとも思います。
僕が以前の記事に書いたように、食事療法について熱心に考えたのも、少なくともあかねの容態を悪化させることはない、と考えたからです。

でも、この段階に至って、その慎重さと偏見は「後悔」にしかならないのでは?と思い、少しでも光明が射すものがあれば・・・と、日々病院でネット検索していたのでした。


医師が提示してくれた治療法は、その医師自身もある程度承知の上ではありましたが、その時のあかねの状態ではどれも現実的には難しい治療法でした。
その時のあかねはもう口から薬を飲むことすらできませんでした。

しかし、唯一注射により薬が投与される療法があり、これならあかねにも・・・と思えました。

癌に関心のある方なら、一度は聞いたことがあるかもしれません。

それは「丸山ワクチン」です。


ただ、ご承知の方も多いかと思いますが、「丸山ワクチン」はその誕生から長い時間を経過した今も、薬効について明らかな証明がされておらず医薬品として承認されていません。
「治験薬」という扱いです。
つまり、患者本人またはその家族が求めて行動しなければ、病院側から提案されることは(多分)ないと思われます。
でも、逆目線で見れば、癌からの生還を必死に願う、本人・家族の意思と行動があれば投与することは可能です。

訪れたクリニックの医師から、ワクチンの入手方法、実際の投与方法はどうすればいいか?の説明を受けました。

ワクチンの入手には、まず治療を引き受けてくれる医師を探し出し、その医師の承諾書等必要書類をそろえること、患者本人またはその家族がワクチン療法研究施設を訪問し手続きと説明会に参加することが必要になります。

担当医の承諾書は、クリニックの医師が用意してくれるとのことでした。
実際注射による投与は、現在治療中の病院に頼むのが良いだろうと、その医師が言われたので僕から依頼することにしました(後日僕はあかねの担当医に願い出て、注射をしてもらう承諾を得ました)。
あとは、ワクチンを実際引き取るための研究施設への訪問ですが、場所は東京です。
僕たちが住む県からだと、朝一番の電車と新幹線に乗れば日帰りでワクチンを持ち帰ることが可能でした。

そのすべてを僕がこなすつもりでした。
あかねに少しでも前向きな治療をしてやることが、務めだと思っていました。

でもそう思っていたのはもちろん僕だけではありませんでした。

東京へワクチンを取りに行くのは
「自分が行く」
と言う人がいました。
あかねのお義父さんでした。

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脳腫瘍への放射線治療は、危惧されていた脳浮腫による容態の急変もなく、3月の下旬に終了しました。

ただし、この放射線治療に費やした時間は、肝臓の腫瘍の進行という代償を払うことになりました。
まだ45歳になったばかりのあかねの年齢も関係しているのかもしれませんが、転移していた肝臓は医師たちの予想以上に進行が早く、外から見ただけでもあかねの腹部は大きく腫れ上がっていました。

前回の闘病記で放射線科の医師から告げられた余命期間の短縮も、この肝臓の腫瘍の進行が根拠であったと思います。

放射線治療で遠回りせざるをえませんでしたが、ただちに抗がん剤治療に立ち戻り、進行を抑えていく必要があると思えました。

でも、この時のあかねの体調は抗がん剤治療に立ち向かえる状態ではありませんでした。

常時微熱が続き、食欲も好転しません。

静脈にリザーバーカテーテルを留置して濃厚な薬剤や栄養を注入する処置もしてもらいました。
病院もその時のあかねに対して施せる処置をしっかりしてくれたと思います。

でも、やはりそれは「治すためではなく、悪化の進行を少しでも遅らせるため」の処置以上のものではなかった思います。


このままでは、僕たちは「その時」を待つだけで終わってしまう。

世界中で一番大切な人が、これ以上ない苦しみを抱えて前を向けずに「その時」を迎えようとしている。
それでも僕にできることは無いのか?

僕は行動することにしました。

以前の記事でも書いたことがある、がん患者のための食事療法を解説した本の巻末に、食事療法を指導している医療機関が紹介されていて、僕たちが住んでいる県下にも一軒のクリニックが該当の医療機関として掲載されていました。

ネットでもそのクリニックについて調べてみると、「がん難民の駆け込み寺」的なクリニックらしくテレビでも紹介されているようでした。
でも、(失礼ですが)規模は小さく医師がおひとりのみのクリニックでした。

あかねが入院していた病院は大学附属病院で、県下でもおそらく施設・環境・医療技術的なものはトップクラスの病院だと思います。
実際、最初にあかねが救急で運び込まれた病院で、僕はその時、あぁ○○病院で良かった・・・、と率直に思ったくらいです。

しかし、僕はあえてその小さなクリニックの医師に相談したいと思いました。

ほかの大病院に相談に行ってもおそらくは現在今の病院から受けている説明と大差はないだろうと思ったからです。
大病院を敬遠しているわけではなく、おそらく大きな病院ではその治療・施設のレベルも拮抗しているので、今以上の話を聞くことはないだろうと考えました。

それよりも、まったく違う規模・スタンスで医療に取り組んでいる医師の意見を聞きたかったのです。
そして僕たち家族に何ができるのかアドバイスをしてほしかったのです。

そしてある夜、僕は今の主治医に相談を持ちかけました。

今、こちらの病院でのあかねの治療に関しては、充分にしていただいていることは承知しているし、実際そう思っている。
でも、この事態になって、僕自身何も行動せずあかねを見守っているだけでは自分自身に納得できない。
ついては、セカンドオピニオンを求めることを認めてほしい。
また、セカンドオピニオンを求めるにあたって、これまでの治療経過を資料として提供してほしい。

多少の思い切りが必要でしたが、医師に対してそう伝えました。

主治医は僕の思いを理解してくれ、近日中に治療経過をまとめた資料をそろえてくれることになりました。


程なく資料は用意され、僕は次にクリニックに宛てて手紙を書きました。

今のあかねの状態を書き記し、あかねの容態の好転を祈る想いを込めました。
そして、その後電話で診察のアポイントを取りました。

もちろん、あかねを連れて行くことはできません。
僕が家族の代表としてひとりでそのクリニックにおもむきました。

「あがくだけあがいてやる」

それが、十数年ともに生きてくれたあかねにしてやれる僕できる唯一のことだと自分自身に言い聞かせて、自分を奮い立たせていました。

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お知らせ
これまでにほんブログ村の「子宮がん」カテゴリに参加していましたが、思うところがあり、登録をはずさせていただきました。ご了承ください。
プロフィール

むらさきせいじ

Author:むらさきせいじ
2011年春、妻をなくした40代です。
本当に本当にありふれた人間ですが、人生の半ばともいえる40代で世界中でいちばん大切な人を喪失したことはそれなりに特異なことだと思います。
そんな状況におかれた心情を綴っていくことで少しでも心が解放されたらと思っています。
プロフィールのサムネ画像は、妻が描いた僕の顔です。

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